明治の三蔵法師・能海寛
明治の三蔵法師と称される能海寛は、禁断の国チベットの「西蔵語大蔵経」を入手して、世界共通語の英語による英訳仏典を世に出し、5億とも目される仏教徒を纏めて世界宗教会議所を設置、仏教大学を設置したいと壮大な計画を胸に描いて、中国大陸へ渡り、上海から長江を遡上して、三峡、重慶、裏塘、巴塘、成都、西安、蘭州、青海、貴州、雲南、麗江、中甸と一万二千Kmを越える距離を踏破してチベットへ向かった。不幸にも雲南の奥地で消息不明となり不帰の人となった。
聖地ラサまでは辿り着けなかったが、邦人として、最も早く西蔵領へ2回(四川省巴塘・青海省タンガル)も初入国した。幸いにも、巡礼旅行中の紀行記録(『能海寛著作集』全15巻に収載)が沢山残っているので、今後、西域研究をする上で重要な文献となり得る。
チベット巡礼探検家・仏教哲学者。明治元年5月18日、浜田市金城町長田浄蓮寺に生れる。京都大学林文学寮、慶応義塾を経て、哲学館(現在の東洋大学)を明治26年7月に卒業。京都普通教校在学中の明治21年10月よりE・C・S(英文会)を立ち上げ仏教を英文章により『新仏教徒』運動を起す。更に『経緯会』へと発展し、明治31年に境野哲海へ引き継がれ『新仏教徒』運動が大きく伸展していった。 「チベット語大蔵経」を入手し英訳経典を世に送り出すため、当時鎖国中のチベット領に単身入国する。著書『世界に於ける佛教徒』。翻訳「般若心経(梵・蔵・漢・英対訳)」、「西蔵ボン教」ほか多数ある。 |